高瀬隼子のイラスト
高瀬隼子
作家

最奥の席

いい酒場、記憶に残る酒場ってなんだろう。各界の一流が綴る、忘れられない酒と酒場の物語。第8回は作家の高瀬隼子さん。


 一人で飲む酒がうまいと気付いたのは働き始めてからだった。学生の頃は仲間と集まって飲む酒が一番うまいと思っていたが、あれはうまいというより楽しかったのだ。

 会社帰りに一人で転々と店を探してまわった。広く騒がしい居酒屋、焼き鳥屋、カレー屋、パスタ屋……そして辿り着いたのが、駅前の古いビルの二階に入ったおでん屋だった。ひげを生やした初老の店主が一人で切り盛りしている、カウンター席だけの狭い店だった。薄暗い店内にくつくつとおでんを煮込む音が響いていた。

 いい雰囲気の店はもちろん好きだが、当時二十代だったこともあり、知らない人からいやに絡まれることもあった。あと数年で不惑の歳を迎える今なら「一人で静かに飲みたいんで」と笑顔でかわせるが、当時は断ることにも抵抗があり、かといってその場限りのおしゃべりを楽しめた経験も少なく、愛想笑いで酒の味が分からなくなるのが常だった。

 狭い店だと絡まれやすいんだよな……と警戒しながらも、だしの匂いにつられるようにして席についた。日本酒、ビールと揃っていたが、店主から「ウイスキーも合うよ」と勧められ、ハイボールを頼んだ。

 飲み始めてすぐに、だいぶ年上の男性に話しかけられ、あーやっぱり一人でゆっくり飲むって難しいのかと思っていたら、その人がトイレに立った隙に店主が「奥の席に移動する?」と聞いてくれた。わたしは最奥の暗がりに潜むようにして座り直し、ハイボールを飲み、鞄から文庫本を取り出して読んだ。物語に集中し、おでんの味に集中し、酒の味に集中した。最高だよこれはと思った。


 それから十年ほど通っていたが、ある時期に仕事が忙しく残業続きになり、店が開いている時間に帰宅できず、半年ほど足が遠のいてしまった。休日もへとへとで寝てばかりいたが、今日こそおでんだ、と重い腰をあげ久しぶりに赴くと、閉店していた。扉に貼られた手書きの「長らくのご愛顧ありがとうございました」を呆然と見つめた。添えられた日付は三か月も前だった。

 その後、近くの美容室で「あのおでん屋さん、心臓発作かなにかで、お店で倒れちゃったんだって。お客さんが救急車呼んで、命は助かったけどお店は続けられなかったそうですよ」と教えてもらった。跡地には別の店が入った。

 わたしのおいしいお酒を守ってくれた、あの店はもうない。もう二度と開かれない。もっと通っていればよかったと後悔しても遅い。今も新しい「いい店」を探し、あちこちの暖簾をくぐる。いい店はたくさんあるけれど、わたしは時々、ハイボールを飲みながら、あの最奥のカウンター席を思い出す。

高瀬隼子
作家

たかせ・じゅんこ/2019年「犬のかたちをしているもの」ですばる文学賞を受賞し、デビュー。2022年「おいしいごはんが食べられますように」で芥川賞を受賞。2024年『いい子のあくび』で芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞。近著に『め生える』『新しい恋愛』など。

*記事内には飲酒や飲料店に対する著者の個人の見解も含まれています。

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