いける口の夜
いい酒場、記憶に残る酒場ってなんだろう。各界の一流が綴る、忘れられない酒と酒場の物語。第7回は演劇モデルの長井 短さん。
幼い頃から塩辛いものが大好物だった私は、両親の期待通り酒飲みになった。安酒だろうが高級酒だろうが、アルコールに貴賎なし。全てのお酒は愛すべき存在である。家族とも友達とも仕事仲間とも、何はともあれ乾杯しながら生きてきた日々。そこに乱入してきたのが飲まない男、亀島一徳。夫である。彼は私と違い、人生に素面(しらふ)で挑む。ごく稀に、家で一緒に瓶ビールを飲むことはあれど、基本的にお酒を飲まない。
新潟県新発田市にある月岡温泉に旅行に行ったのは、コロナが収束し、人々がマスクなしで自由に出かけられるようになった頃だった。どうして月岡温泉に行くことにしたのか、取り立てて理由はない。あの頃は、見知らぬ場所ならどこへだって出かけたかった。
日の暮れる前からどっぷり温泉に浸かった私たちは、小さな温泉街をフラフラ歩いた。全店梯子(はしご)しようと言いながら散策していると、赤く光った看板が目に入る。〈笑家〉という居酒屋だった。
店内には温泉街のどこかに泊まっている先客が数人いて、時々大きな笑い声が聞こえる。砕けた居酒屋の雰囲気を感じるのが久しぶりだった私は嬉しくなり、まずはビール、次もビール、まだまだビール。向かいに座る亀島君は時々私のビールを啄(ついば)みながら、しっとりコーラ。お腹も膨れてきたことだし、そろそろ日本酒に手を出そうかと思った頃、大将が席にやってきた。
「よかったら良いものが入ったので、飲んでみませんか」
密談めいたその言葉にすっかり心奪われてしまった私は即座に「はい」と良い返事。やってきたのは「十四代 秘蔵酒」だった。大将自ら注いでくれたその日本酒は、もともと自分自身だったのではと錯覚するほど体に馴染み、驚きで目を見開いた。自分に向けられる温かい眼差しに気付き大将を見ると、悪戯っぽい笑みを浮かべてから奥へ戻っていった。こんなに美味しい酒はない。もはや酒ではないような気までする。どんどん頂こうと徳利に手を伸ばすと「くぅ〜」。玄人(くろうと)のように目を閉じて唸る亀島君がそこにいた。おま…おまえ…鬼殺しも飲んだことないヒヨッコが「十四代」とは生意気な!負けじと私もお猪口(ちょこ)を煽る。
その様子が見えたのか、大将は新たな瓶を抱えて席へやってきた。
「日本酒好きならこれも」「これも」「こんなのも」と、
次から次へとやってくる日本酒と、間に挟まる駄菓子のサービス。お殿様にでもなったような気分で、私たちは日本酒を飲み続けた。東京から来たこと。こんな美味しい日本酒は初めてだってこと。明日は山形へ移動すること。私たちの話を大将は、温泉に浸かっているみたいに温かな表情で聞いてくれた。
初めて、頬を染め薄ら笑いを浮かべる夫の姿を見た。嬉しそうにお猪口を撫で「美味しいねぇ」と何度も呟く。私はなんだか、パラレルワールドの亀島君に出会ってしまったみたいでくすぐったい。それにしても酔い方の、行儀の良いことよ!私とは大違いだ。こんな風に酔えたなら、なんの気恥ずかしさもない。羨ましいなぁと思いながら、予想以上にいける口の彼を見つめ、もっともっと、知らない夫を見つけたいと思った。ほとんど知り尽くした気になっていた彼の新たな一面を見つけさせてくれた〈笑家〉の皆さんには、感謝の気持ちでいっぱいだ。素顔を知るために絶対不可欠なものは安心。心をほどいてくれる居酒屋は、温泉街にぴったりである。お金と時間が揃い次第、また遊びに行きますね。
ながい・みじか/1993年東京都生まれ。舞台、ドラマのほか文筆家としても活動。小説の執筆も行い、著書に『ほどける骨折り球子』(河出書房新社)がある。
*記事内には飲酒や飲料店に対する著者の個人の見解も含まれています。