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伊藤亜紗
美学者

思いがけない味の深み

 自分が研究者なせいか、研究者気質のマスターがいる酒場にわくわくしてしまう。四谷三丁目の「日がさ雨がさ」に連れていってもらったとき、カウンターのマスターが出してくれたのは、無骨なペットボトルに入った2種類のどぶろくだった。

 ひとつめは、ボトルにつめられてから日の浅い「若い」どぶろく。もうひとつは、かなり日にちの経った「熟成」のどぶろく。明らかに魅力的なのは後者で、塩麹みたいなどろどろした白い塊がペットボトルの壁面にこびりついている…。その旺盛な発酵ぶりに見惚れていると、マスターがひとこと「呑み頃からだいぶ発酵が進んでますけど…」。


 
はい、と恐る恐る注文すると、マスターはもうひとつの演出を用意してきた。なんと、「アブサン」を少し垂らして呑むといい、と言うのだ。「アブサン」ってあのドガも絵に描いているかつてフランスの芸術家たちを魅了した黄緑色のお酒だよね?どぶろくにアブサン?

 意外すぎる組み合わせに首をひねりながら疑心暗鬼のまま口にすると、これが何とまあ、すてきなマリアージュなのだった。アブサンの強い香りが、熟成したどぶろくにくっきりとした、でも強すぎない輪郭を与えてくれている––まるで一滴で溶液の色がパッと変わる化学の実験のようである。友人と目を丸くしていると、当のマスターは偉ぶるでもなく、言葉少なにもう暗がりの方に消えてしまっている。


 こんなふうに書くと、まるでお酒に詳しい通のようだが、むしろ逆である。大して強くもないし、全然詳しくもない。蘊蓄は……どちらかといえば嫌いだ。ワインの産地とか日本酒の銘柄とか、何度聞いても頭に入らない。微生物たちの営みによって糖が分解された結果、なぜかヒトを気持ちよくさせる呑み物が作られる。そして、それらは組み合わせによって思いがけない味の深みを作り出す。たくさん呑めないぶん、お酒という世界の奥深さ、面白さを教えてくれる人がいると嬉しい。知識を増やすよりも、むしろ魅了されたい。

 このお店を教えてくれた友人も、好奇心旺盛でいろいろな世界を教えてくれる人だった。世界を飛び回り、アート業界の清も濁も知り尽くしたカッコイイ方。まだ若かったのに、突然の別れとなった。いまだに実感が湧かない。
 こんど「日がさ雨がさ」に行ったら、研究者風情のマスターに、勝手に友人を重ねてしまうだろう。そしてちょっとびくびくしながら、知らないお酒の世界を冒険するのだ。

伊藤亜紗
美学者

いとう・あさ/1979年東京都生まれ。東京科学大学未来社会創成研究院/リベラルアーツ研究教育院教授。MIT客員研究員(2019)。専門は美学・現代アート。主な著書に『目の見えない人は世界をどう見ているのか』『どもる体』『記憶する体』『手の倫理』『体はゆく:できるを科学する〈テクノロジー×身体〉』など。

*記事内には飲酒や飲料店に対する著者の個人の見解も含まれています。

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