Vol.5『ダブリン市民』

「まあ、たとえばですね、あの名高いキャシディー夫人と同類のようなものでして、あの夫人はこう言ったそうですよーーいいかえ、メァリー・グライムズ、わたしが飲まないでいたって、飲めるようにどうにかお酒を出しておくれ、ほんとうはわたしだって飲みたいんだからさ、ってね」
アイルランドを代表する文豪ジェイムズ・ジョイスの短編集『ダブリン市民』には、20世紀初頭のダブリンで暮らす人々を活写した15の物語が収録されている。舞台が舞台だけに、ほとんどの作品で誰かしらウイスキーを飲むのだが、中でも「死者たち」のブラウン氏ほど、脇役ながら「これぞアイリッシュ!」と膝を打ちたくなる好人物もいない。
「死者たち」が描くのは、雪の降るクリスマスの夜、年老いた姉妹とその姪が主催するホームパーティで織りなされる人間模様だ。ゲストの1人であるブラウン氏は、姿を見せるなりグラスにたっぷりとウイスキーを注ぐと、「恨むらくはだ、これはお医者さんのご命令でしてね」と微笑む。即座に「だって、ブラウンさん、お医者さまはそんなものお命じにならなかったでしょう」と突っ込まれるのは言うまでもない。対するブラウン氏がつぶやくのが、この台詞。独特なユーモアとお喋りを愛し、何より三度の飯より酒を愛するアイルランド人の気質を、ぎゅっと凝縮したような愉快な場面ではないか。
それでいて、酔っ払いすぎて迷惑をかけることもなく、ムードメイカーに徹しながら楽しくウイスキーを飲み続けるブラウン氏には、好感を抱かない方が難しい。わけても印象に残るのは、とある人物が乾杯の挨拶をするシーンだ。
「年ごとに私がますます強く感じますのは、わが国の伝統でもてなしということほど大きな誉れであり、またわれわれの心して守らなければならない伝統はないということであります」と語るその人物は、この「純粋な、心の温かい、ねんごろな、アイルランド的の歓待」を「祖先の人々がわれわれに残し、さらに今度はわれわれもまた、子孫へ伝えねばならない」と続ける。
「謹聴!謹聴!」とこれに大声で賛同するのは、もちろんブラウン氏だ。彼はスピーチが終わると、ゲスト全員に大合唱をするよう促し、会場はたちまち歓喜の渦に包まれる。おそらくこうしたゲスト側からのフルスロットルの応答もセットで、古き良き「アイルランド的の歓待」の姿なのだろう。その傍らにはもちろん、アイルランドが誇る伝統文化のひとつ、ウイスキーの存在も欠くことはできまい。
『フィネガンズ・ウェイク』『ユリシーズ』など摩訶不思議な作品で知られ、20世紀の最も重要な作家の1人と評価されるジョイスが、そのキャリアの最初期に発表した短編集。「死者たち」は1987年、ジョン・ヒューストン監督により『ザ・デッド「ダブリン市民」より』として映画化された後、ミュージカル化もされた。